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移住希望者のみなさん
富士河口湖町で新しい「物語」を始めませんか
人世を変える
新しいライフスタイルが
​ここにはある
先輩移住者の「つぶやき」と「お誘い」
富士河口湖町は、歴史、自然、生活環境などが異なる個性に満ちた14の地区(淺川、大嵐、大石、勝山、河口、小立、西湖、西湖西、西湖南、精進、長浜、富士ヶ峰、船津、本栖で形成されています。私たちのつぶやきのなかに、あなたの「物語」が生まれる移住地が必ずあると信じています。
河口地区
河口浅間神社を​中心としたまちづくり
​「御師のまちなみ」復活へエールを!
さまざまなタイプの移住者も加わって、情熱沸騰 「河口浅間まちづくりの会」の会合
 貞観(じょうがん)の富士山大噴火(864年)ののち、朝廷の命で怒りを静めるための鎮魂の社として、865年に河口浅間神社が建立されました。「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されています。富士山エリアにある浅間神社はみな「せんげん(浅間)」と読みますが、ここだけは「あさま(浅間)」と読み、地元のひとたちは地区のシンボルとして強い自負をもっています。4月25日と7月28日には、3月に国の重要無形民俗文化財に登録されたばかりの「稚児の舞」の奉納行事が行われます。

 かつて武田家が支配した山梨県「甲斐の国」は「交」と書いて「かいの国」だったとも言われます。東海道と中山道をつなぐ道に三つの「宿」(しゅく)があり、その中心が「河口宿」で、交通の要所として発展しました。

 「河口浅間まちづくりの会」が、「河口浅間神社を中心としたまちづくり」をコンセプトに、地域の「にぎわいの想像」「景観の創造・改善」「歴史・文化の再興」「まちづくりを担う人の育成」を目標に、熱心な活動を続けています。鎌倉時代から江戸時代にかけて、信仰の対象となってきた富士山を目指し多くの人たちが訪れるようになり、宿の提供と富士登山の案内役を担う「御師」たちが深い短冊形地割を基本とした切妻形式の家並みを鎌倉街道沿いに作っていきました。この「御師のまちなみ」は残念ながらほとんど姿を消してしまっていますが、御師の門や集落の跡を偲ばせる路地、生活水路の呑川など、当時の面影が各所に残っています。信仰や歴史に興味のある方は、「御師のまちなみ」復活に向けての活動を仕掛けてみてはいかがでしょうか。
船津地区
昭和レトロの町並みへ向けて
​ 河口湖駅から河口湖畔に下る三叉路に本町商店街があります。河口湖駅から河口湖にいたる道のまさに途上にあり、外国人を含めた観光客が目の前を往来するところですが、残念ながら一部の商店を除いて素通りされてしまっています。むしろ、シャッター通り化する現実に危機感をもった地元有志が、富士山をめぐる神域のパワースポットの活用や新感覚の建築などによる「まち起こし」の意見をぶつけ合っているところです。
 昭和年代の商店街の白黒写真が地元の写真館に多数保管されていることを伝え聞いた移住者の一人が、この写真を徳島県鳴門の大塚国際美術館に向こうを張って(大げさかもしれませんが)陶板写真として焼付け、商店街のそこここに展示しての「昭和レトロまちかど陶板博物館」として、町並みを形成していったらどうかと、声かけを始めています。
 開業していない医院や廃業してしまったおにぎりやなどの廃屋も含めて、商店街エリアの建物に建築年代を記録する看板をかかげ、開いている店はその店自慢の時代物なんでも(たとえば土瓶など)を一品、店主の思い出話とともに店内に飾ってもらいます。廃屋は、時間を刻印することによって、新たな命を得、町の顔として再生します。いたるところにある富士山噴火の溶岩を、休憩スポットして活用したらどうか、との声もいただいています。
 商店街エリアが昭和レトロの香りの高いノスタルジックな空間に変貌すれば、いままで素通りしていた観光客が、「町並マップ」を片手に商店街エリアを巡るようになるのではないでしょうか。
 この商店街には「カフェ」(喫茶店)が一軒もありません。おしゃれなファッション・ショップもありません。フレッシュな感覚で、町並みを変える意欲のある方々の移住をお待ちしています。
ヘッディング (小)
★各地区からのメッセージを逐次、掲載していきます。ご期待ください。
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